寺泊からの12スナップ写真



Ryouko Suzuki


けんしん(寺泊支店)に鈴木さんの作品
)が展示されて
います。
昨年はじめて拝見して凄いなーと思ってい
た、今年はクリスマスバージョン。
何処の人と思っていたら我家から数十m
のご近所。これまたビックリ。
話しを聞くと押し花などフラワーアートは
10年くらい前からで展示されている物は
もう嫁ぎ先がきまっているようです。
色合いをとても大事にしているとのこと
キャンパス台はダンボールにカマス袋を
巻きつけたものです。
多彩に活動される元気な寺泊人です。

大家建「蒲原平野の成り立ちと土木技術」より 第1回分水路工事堀割り位置と現在大河津分水路位置図
渡部武男「郷土の史」より
         長岡市の出前講座 「本間屋数右衛門を学ぶ」    センターおおこうづ12/4
             講師 長岡市科学博物館文化財係主任 加藤由美子      主催 まちづくりを考える学習サークル
 今回サークルでは寺泊の歴史と文化に誇りをもつ「まちづくり」に役立たせたい思いで「出前講座」を開催したとのこと。
 新潟平野を流れる信濃川は数えきれないほどの洪水を起こし家、畑、命さえも奪い人々は貧困にあえいでいた。
 寺泊町の庄屋本間数右衛門は、何とかこの苦しみを救い郷土を発展させたいと思い洪水を防ぐため信濃川の水を一部、寺泊の
 海岸へ分けて流すことを考え1730年、河合某と共に大河津分水計画を幕府に請願する。
 しかし許可はされず本間数右衛門親子二代、80年あまり強い思いで請願続けたがとうとう叶うことはなかった。
 役人に「幾度生まれ変わっても工事のできあがる日をお待ち申します」といったそうです。
 分水掘割り工事は容易ではなく費用も莫大で分水路にあたる人達は田畑がつぶされ家がうつされ魚や塩がとれなくなるなどで
 反対の声も大きかった。時代も幕末から明治と混乱期で天明、天保の飢饉。
 しかし、その後もいろいろな人が分水工事の請願は続き横田切れの大被害もあって工事は始り本格工事と進んだ。
 信濃川大河津分水掘割りは、耕地を広げ現在にいたる日本一の穀倉地帯、新潟の発展の中核なのです。
 この先達者が寺泊の本間屋数右衛門です。親子二代の墓碑は寺泊、照明寺に建てられています。
  講座では二代目数右衛門と良寛さんと時代が重なっていることなどの話しもあった。
 しかし二人の交流の記録は今はないようですが、研究を深めたいとのこと。
 良寛さんも悲惨な洪水のことを歌に残しています。      「遠方ゆ しきりに貝の音すなり 今宵の雨に堰崩えなむか」

寺泊水族博物館では25日まで1日4回サンタクロース姿で餌付けショーが行われています。
餌の切り身を出した瞬間、優雅に回遊していた魚、とくに丸々太ったシマアジがマリンガールを襲うかのように
むらがってくる。これもまた魚の一面を見れるおもしろいところでもあります。
子供とのジャンケンや写真撮影で水槽前はにぎわっていました。
水族館を出て右手の防波堤ぞいに歩くと冬の風物詩、波の華の泡が舞い上げっています。
風情ある自然現象であるが地元の人には、やや厄介ものである。
この泡は塩分もふくんでいるため車に付くと錆や変色になりかねないためです。
サンタマリンガールに波の華に、ちょっとお出かけください。

             大しめ縄奉納        白山媛神社大鳥居  12月12日
   1、本厄実行委員長挨拶 2、神社総代挨拶 3、祝詞 4、玉串奉納 5、御神酒振る舞い
   昭和45年生まれの本厄と前厄の厄年の男達での大しめ縄奉納。
   2年間、役員の人達は何かと大変だ。気をひきしめ生活、健康も気をくばる。         (写真提供 厄年役員さん)

とっても穏やかな日曜日。
弥彦山山頂でお弁当をひろげる、ご夫婦。
分水河口。 あれは何だ?

年の瀬の30日。   寺泊魚のアメ横通り。
無料番屋汁サービスのテントには大勢の人人の長い行列。
やはり主役はカニ、タコ、サケ、ブリだろうか、私が目をひいたのが青森産の「ノドグロ」一冊1500円。
店員さんとのやりとりも楽しみの一つ、自分の目利きをしんじドンと買いましょう。

 元旦に配る広告の折り込みチラシ準備中の藤田新聞屋さん。
 おもに寺泊海岸部で1500部用意するそうで年がかわるころ
 新聞が届き、このチラシを差し込み配達となります。
  「ご苦労様です。」
 年々、新聞の購読件数もへっていて元旦のチラシも不景気で
 少ないようです。
 元旦の一面に希望のもてる記事が飾ってほしいものです。
 2011年に入り、元旦の新聞が届き、準備していた
 チラシを差し込み配達エリアに分けていました。